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支倉常長って誰?

毎年6月に開催される「支倉常長まつり」。
しかし、その 支倉常長 を知る人はどれ位いるでしょうか?
ここでは 支倉常長 に関して軽く紹介します。

支倉常長(支倉六右衛門常長)ストーリー。

以下の記載は「宮城川崎.com」運営者が独自に調査の上作成を行なっています。
支倉常長については日本で生活していた時に複数の説が存在するため、
正しいものとは限りません。予めご了承ください。


元亀2年(1571年)山形長井邑立石生まれ。乱世真っただ中だった頃。
父は山口飛騨守常成。元々は山口五郎右衛門と名乗っていた。
室町末期には伊達稙宗・晴宗に仕え、柴田郡支倉邑(川崎町)に住み、支倉を姓とした。
叔父の支倉時正(千二百石)に子がなかったため、時正の養子となる。

当時、国内の情勢や幕府の意向は複雑であった。
そこで、仙台藩主 伊達政宗 がローマ法王へ親書を送る事に。
内容は仙台領内でキリスト教の布教を許可するのと引き替えにメキシコとの通商を希望するものだった。
その使節にとして選ばれたのが 支倉常長 である。
また、この使節を 慶長使節 という。

慶長18年(1613年)に支倉常長の外交使節団一行180余人を乗せた慶長使節船は、
月浦から遥かローマを目指し 宮城県石巻市(牡鹿半島)・月の浦 を出帆。
この慶長使節船が サンファン・バウティスタ 号である。
日本人の手で作られた 500t の洋船だ。
(右の写真は復元されたもの)

太平洋を大きく横断しメキシコを経由し、 90日後に当時イスパニア領だったメキシコのアカプルコに入港。
その後サン・ファン・デウルワ、ハバナ、サンルーカル、そしてスペイン・マドリードと旅した。
マトリードでイスパニア国王フェリーペ3世に謁見。
そして 1615年、ヴァチカン宮殿でローマ法王と謁見し、宣教師派遣とイスパニア領国との通商を申し込む。
支倉常長 はローマ市民権を与えられ、ローマ貴族に列せられた。
デスカルサス修道院で洗礼を受け、授洗式には国王をはじめ、王家、名族のの臨席のもとで執り行われた。
その時の常長の洗礼名は、ドン・フィリッポ・フランシスコ。
しかし、ローマ法王は宣教師の派遣は同意したものの、通商についてはイスパニア国王に一任しただけだった。
それでも 支倉常長 は国王、法王にメキシコとの通商許可の請願を繰り返し、使命の現実に努力したが、
返答を得られないままやむなく帰路につく。
出帆から7年後の1620年(元和6年)に仙台着。
しかし、その 支倉常長 に待ち受けていたのは折しも厳しい徳川幕府からの禁教令だった。

その後、支倉常長 は2年後の 1622年没。
ここは別の説がある。黒川郡大郷町の資料では
 伊達政宗 が 支倉常長 からの報告を聞いた後、
 処刑されないよい黒川郡大谷成田村(黒川郡大郷町東成田)に行って隠棲を命じ、
 「2年後の 1622年に病没」した事にする。
 支倉常長は 黒川郡大谷成田村 の 鍛冶屋沢御林 に余人との接触を避けて暮らしつづけ、
 32年後の承応3年84歳で亡くなり、鍛冶屋沢御林中に葬られる。
という説明となっている。


その 支倉常長 の墓が 川崎町支倉 にある。
そこには、円福寺という寺があり、この寺が支倉常長の菩提寺という一説がある。
またその背後には通称「支倉館」という中世の館跡がある。
そこに 支倉常長 一族が居住していたという。

そして サンファン・バウティスタ 号の復元と共に支倉常長を知る人も出てきた事から、
川崎町で「支倉常長まつり」の開催が行なわれるようになった。
しかし、支倉常長 の墓とされているものは他に 仙台市北山・光明寺 と 黒川郡大郷町東成田 にも存在している。

おまけ。
 支倉常長 は日本人ではじめてチョコレートを口にした人物とされている。
 当時のチョコは現在のような固形 では無く、溶けた状態の「飲み物」であった。





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